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オステオパシ

日本武道医学との交流記

○オステオパシー医学とは

 オステオパシーとは、オステオ(Osteo)「骨」と、パシー(Pathy)「病理、治療」の組合せ語で、いわゆる「骨格の治療」という意味である。
オステオパシー医学はアメリカのアンドリュー・テーラー・スティル(Andrew Taylor Still) という医学博士(1828〜1917)によって1874年に創始された手技療法を含んだ総合医療体系である。

【オステオパシーの思想とその手技テクニックの古今】

 20世紀において、さまざまな病気に対して医学と薬理学的治療の素晴らしい研究と実績が進められてきた。しかしそれと同時に、さまざまな薬品被害や原因不明の病気や新型ウィルスなどの出現も地球上の国々で社会問題になっているということもいうまでもない。特に、この数年間において、人々の自然医学及び自然治癒力への関心は高まってきている。当然、オステオパシーへの関心も、その過去の輝しい実績のため多く感じられる。しかし、オステオパシーの治療神話というのはほとんどその創立期の技術体系のものであり、その成り立ちの歴史と各世代における技術体系の変革を研究することによって、オステオパシーの真の姿を理解できる。
 ここではオステオパシーの創立と思想および技術体系の神髄を理解するにあたって、各世代におけるその歴史と思想および技術体系の変化を説明する。

○オステオパシーの創立期

 スティルはアメリカのバージニア州に生まれ、父はキリスト教メソジスト派(注1を参照!)の聖職者(Methodist minister)で、後に一家はアメリカの中西部にメソジスト派の教義を広げるため移住するのである。スティルの父が牧師であったと同時に、様々な伝統医学などを独習し、複音と治療を組み合わせて、ヒーラー(HEALER)として治療活動も行っていたという。やがて父のこのような影響で、アンドリューが医学を学び、カンザス・シティの医科大学で医師としての教育を受けることになる。
 ノーマン・ギウィッツ(Norman Gevitz) によれば、スティルは宗教的な環境で成長していたため、聖霊と肉体の関係、肉体と魂と癒しの関係について、何らかの非物質的な力(作用)が困果的役割を果たしていると考えていたという。
 スティルは当初から、医薬品などの効用を信頼できず不満を抱いていたといわれる。そして当時、自分の子供3人が脊髄膜炎にかかってしまい、スティルがその当時西洋医学の最高の教育を受けていたにもかかわらず、不幸にも3児を失ってしまった。当時、現代医学の薬品や手術などに対して、不満がやりきれなく、しばらくの間、精神状態も不安定で、「この世の中に現代医学の思考で手の届かないような不思議な力や療法が絶対にあるはずだ」ということで考え込んでいたといわれている。
 スティルは自然の神秘に注目し、身体の健康への手がかりと自然治癒力のメカニズムを発見しようと決意した。
 当時スティルは、その社会的なかつ宗教的な活動から、カンザス州の議員に選ばれていた。1874年に、彼は自らの正規医療(現代医学)の行為をすべて放棄し、カンザス州のボルドウィンシティ(Baldwin city)の市民に対して、現代医学の治療方針への信頼を無くすように呼びかけた。
 やがて、スティルはミズリー州のカークスウィル(Kirksville)という当時僅か1800人口の市に移住することになった。しかし当初は、カークスウィルで「スティル磁気治療師=A.T.STILL,MAGNETIC HEALER」として医療の実戦活動を開始する。そして数年後、薬を用いない医療の名称で、メスメリストヒーラー(MESMERIST HEALER)として巡回(往診)的な医療活動を続けることになる。スティルのメスメリストヒーラー時代のことはあまりよく一般に知られていないが、メスメリズム(MESMERISM) (注1を参照!)は彼の最終的な医療哲学の信念の有意義的な段階、即ち「オステオパシー」の形成において、確実な影響を与えたということは事実のようである。
 1870年代後半から、スティルは磁気ヒーラーとしての活動をしながら、骨格の矯正法の研究もすすめていたと言われている。スティルは磁気治療師からオステオパシーの発見までの道のりのなかには、自然治癒力への確信や、健康とは調和的で、生体エネルギーが何らかの障害なしで、スムーズに流れているということに信念があったように見える。磁気治療師として、人間の体内に流れている生体磁気(生体エネルギー)への確信を発見したかのように、骨格のアンバランスによってこのエネルギーは低下し、さまざまな障害が現れてくるということも発見したのであろう。
 そもそも、スティルは子供のときから、父親のもとで、アメリカの開拓地やインディヤンの居住地で骨格の矯正法に出会った機会が多かった。そして、南北戦争で北軍に従事していたといわれている。
 古くから、インディアンの間で、骨格調整法が行われていたという報告がある。そして、当時、スティルがインディアン居留地でインディアンの伝統的な治療法に出会う機会があったともいわれている。
 スティルがインディアンの伝統療法を学びながら、子供の頃にした頭痛の体験をきっかけに、脊柱や骨格に対して興味を持っていたことから、インディアンの墓を掘り起こして骨格や関節の研究を行い、オステオパシーの原理を発見したのである。  このようにスティルが、骨格に対する少年時代の体験とインディアン居留地での医療活動や骨格研究の環境の中で、自分の創始した医療体系を「オステオパシー」としての名付け、即ち骨格、関節、靱帯、筋などの調整操作によって病気を回復させることに専念したのである。
 オステオパシーがアメリカに生まれた当時は、伝染病は流行して多くの子供が犠牲なりました。しかし、当時の記録を見てみると、スティルがオステオパシーの手当法で多くの伝染病のこどもを救ったといわれる。
 このように当時、オステオパシー(OSTEOPATHY)という新医療科学はスティルによって創立されたのである。オステオパシーの原語は、もともとギリシャ語のオステオン(OSTEON=骨)とパトス(PATHOS=病的状態)の組み合わせである。

【注1】
 メソジスト(Methodist) はメソジスム(Methodism) 派(主義)の信者のことである。メソジスム(Methodism) は、ジョン・ウェスリー(John Wesly)の指導によって、18〜19世紀に信仰復興運動から興ったキリスト教プロテスタン派(Protestanism)の一教派である。この教派は、個人的、社会的な道徳を強調し、アルミニウス(Arminius)派(または、アルマニアニズム=Arminianism)の教義を持ち、アメリカでは修正された司教管轄組織をもっている。  アルマニアニズム(Arminianism)は、ジェイコバス・アルミニウス(Jacobus Arminius)とその一派たちの説教によるキリスト教プロテスタン派の神学である。この派の教義では、特にキリストの死は全ての人のためのもので、選ばれた人たちのものではないという。
 ジェイコバス・アルミニウス(Jacobus Arminius)(1560〜1609)は、オランダの改革派神学者でアルマニアニズムの創始者である。

【注2】
 メスメリズム(MESMERISM) は、フレドリック・アントン・メスマー(Friedric Anton Mesmer) というオーストリアの医師(1733〜1815)によって開始された動物磁気催眠術である。これは催眠術によってヒーリング(癒し)を行うというが、現代で行われている気功療法の一種であると思われる。

○オステオパシーの認定と発展期(全盛期)

 オステオパシーを発展させるためには、まず社会的に認識させる必要があった。オステオパシーの創立期において、社会的に、またアメリカの医学および療法師の伝統的なランク付けのなかで、接骨師(Boneーsetter) の地位はもともと低かった。当時、オステオパシーは現代日本の接骨院のように単なる骨折等の手当てを行うものだと一般に思われていた。スティルは骨接ぎ屋とオステオパシーの哲理と思想および技術の違いをアピールした。
 スティルは当初、オステオパシーと骨接ぎの違いを、骨格矯正法の技術を磁気的な手当て法の論理的な拡張と認識の違いによって発表した。当時、自らをマグネッティクドクター(Magnetic doctor=磁気療法師)としての整骨師であると社会に売り込んだという。
 あるアイルランド人の女性は肩甲骨周辺の上部胸椎の痛みを訴え、スティルが上部胸椎の矯正を行い、たちまち痛みが解消し、さらに、彼女の持病の喘息を上部胸椎および肋骨の調整によって完治したという。また、当時、正規の医学では治療の見込みがないとされていた、あるアメリカ上院議員の息子の心臓病も治療したという。このように、スティルは心臓病、頭痛、腰痛、背中の痛み、リューマチや伝染病などを治療できると、オステオパシーの医学的な効能発表した。オステオパシーの効能と噂が広がり、単なる骨接ぎ的な施術とは違うと、徐々に社会的に認識されたのである。
 スティルは1892年までに、オステオパシーの哲理と技法を完成させ、カークスビルにアメリカンスクールオブオステオパシー(米国オステオパシー学校=American School of Osteopathy)を開校した。当時、僅か7か月の講習会のカリキュラムでオステオパシーの技法と哲理を一般に教授した。
 しかし、オステオパシーを基礎付けさせ、しかも認定させるためには、充分な医学的かつ科学的に根拠を確立しなければならない。オステオパシーを医学的に立証し、またオステオパシーの発展に一役をかったのは、スコットランドの医師・ウィリアム・スミス(Dr.William Smith)だった。スミスは旅行中に、オステオパシーの噂を聞き、オステオパシーの本部があったカークスビルに立ち寄り、スティルに会ったという。スミスはオステオパシーにかなりの効能があると確信し、スティルの推薦で新設の米国オステオパシー学校の教師となった。スミスの提案で米国オステオパシー学校の教授会の人事およびカリキュラムの編成が行われ、事実上オステオパシーの医学的な理論の発展に大いに尽くしたのである。
 スティルは、最後までオステオパシーの現代医学化、即ちオステオパシーと薬品や手術との絡み合いに反対したと伝えられるが、オステオパシーの現代医学的な方向への傾きを止めることはなかった。やがて、スミスの指導の基でカークスビルのオステオパシー学校では現代医学的な解剖生理学などの教授法は進められ、オステオパシーの免許制度の法案は認可されたのである。やがてオステオパシーの認定化が全米に法案されるに従い、徐々に現代医学への道を歩むこととなり、創立期に開発されていた多くの古典的な技法の衰退が避けられない状況になってしまうのである。
 19世紀の終わりと20世紀初期において、オステオパシーではあらゆる病気に対して、脊椎と骨格の関連性が研究され臨床的に立証された。それは言うまでもなく、スティルとスティルの直弟子たちの業績の結果に他ならない。特に、1950年まではオステオパシー全盛期において、脊椎と疾患の関連性についてさまざまな実験および臨床研究が行われ、そのデータが発表された。1950年代までオステオパシー関連の数多くの技術教科書は出版され、カイロプラクティックのテクニック開発にも多大な影響を与えた。

○オステオパシーの古典的な技法と思想の衰退期

 オステオパシーの古典的な思想を創始したスティルは、サムエル・トンプソン流の神学(The theological vehemence of a Samuel thompson)の情熱を受け入れ、現代化学的な薬品の使用を非難した。スティルと彼の弟子たちが、オステオパシー的な病気の原因は、骨格(椎骨)の変位(障害=LESION)にあるということを解き、関節の変位によって生命の目に見えない「電気的な力=エネルギー」が低下して病気になるという思想と理念を崩さなかった。
 現代医学は病気の原因は「細菌」にあるとことになっている。古今、オステオパシーにおいても「細菌」は病気の原因であるということは否定されていない。しかし、古典的なオステオパシーにおいて、オステオパシー的な骨格(椎骨)の変位は、身体エネルギーおよび体質や抵抗力の低下を招き、細菌感染を引き起こす原因であると強調している。このように、古典的なオステオパシーの関心は予防医学としての立場を強調しているという局面も理解できる。
 初期(創立時より1920年代まで)のオステオパシー療法の原理は骨格の調整におかれていたということは言うまでもない。しかし、時代の変換に伴い、西洋医学的なの教育のもとで、オステオパシーには大きな変革をもたらすことになった。オステオパシーの医師の業務が段々と一般医師と同様に、手術や薬の投与などが主体となり、手技テクニックに対するこだわりが薄らいできた。現在、皮肉にも本場アメリカにおいては、膨大な治療効果を誇っていたオステオパシー全盛期の矯正技術が失われつつあるものの、さまざまな新しい矯正技術がマニュアル・メディスン等の名称で確立されている。無論、創始者・スティルのオステオパシーの初期の矯正技術や哲理を厳守しながら、器具の使用や薬の投与および手術を一切否定しながら、初期のオステパシーの治療精神で、さまざまな病気の治療に当たっている専門家もわずかながらいるようである。
 1950年代に、米国医学会(AMA)と米国オステオパシー医学会(AOA)との意味深い友好関係が結ばれ、共同研究や病院経営や専門医の交換教育などについて協力し合っいる。オステパシーは時代とともに、米国の全州で徐々に認可されることに従い、創始者と直弟子たちの信念に支えられていた手技テクニックと思想が薄らいで、その技術体系も変化して、20世紀の医学と薬理学的治療体系の仲間入りになってしまいました。

○ニュー・オステオパシー期

 NEW OSTEOPATHY(ニュー・オステオパシー)と古典オステオパシーの違いは、その技法と思想の違いにある。書物等で神話として語られているオステオパシーの治療効能は、古典的な技法の結果で発揮されていたということを決して忘れてはならない。
 オステオパシーの古典的技法の衰退と新技術の開発の背景には、2つの大きな理由があると考えられる。

 一つの理由は、先述したオステオパシーの一般医学化と、利益優先の社会背景である。

 創始者であるスティルは、手技テクニックの有効性を解明し、独特な哲理と信念に基づいて数多くの奇蹟的な治療効果を実現させた。当時、スティルはわずか七ヶ月から二ヶ年の技術教育カリキュラムで多くの優秀な専門家を育てた。スティルの教育の結果、数人の直弟子たちがスティルやオステオパシーの教義を厳守し、古典的な技法と哲理およびその有効性を臨床的に後世に伝えた。しかし、現在本場アメリカにおいても、オステオパシーの教育は新医療規制や現代医学的な枠組みの中で行われ、スティルの教育方針とは遠く離れている。古典的なオステオパシーの技法は、オステオパシーの古典的な用語や思想の理解のもとで研究しなければならない。オステオパシーの古典的な用語は、現代医学的な用語に改善され、現代医学の見解のもとで教育が行われている。アメリカでは、オステオパシーの専門医師をD.O(Doctor of Osteopathy) といい、D.Oになるには、高校を卒業後、先ず一般大学で4年間の教養過程を終了し、そしてオステオパシーの専門大学で6〜7年間の教育を受ける。しかし、その教育の大半は手技テクニックよりも一般医科大学と同等な教育である。
 大量生産の儲け主義である現代社会では、薬の投与や外科手術の方が手技医療よりも有益であるため、現在多くのオステオパシー医たちも、現代医学的な治療方針を優先としている。

 もう一つの理由は、損傷等におけるアメリカ社会の独特の賠償制度の背景であろう。

 某ファーストフード店では、熱いコーヒーをこぼして火傷しただけで、数億ドルの賠償が命じられた例がある。アメリカイおいては医療ミスにおける賠償も半端なものではない。骨格関節の矯正は効能を発揮する前には、抗体反応やメンゲン現象によって一時的に痛みを引き起す場合がある。この現象は、身体を害したと誤解を招き、アメリカのような社会では個人の賠償責任を負うだけではなく、その人を教育した専門機関まで賠償の対象となり得る。このためには、近年アメリカ等では、抗体反応を引き起さない筋エネルギーテクニックのような、ソフトな技法が開発され主流となっている。筋エネルギーテクニック等の名称や技法は、スティルの時代また1950年代までに主流だった古典的なオステオパシーの書物では見当たらないが、はたして、スティル時代の古典オステオパシーのような治療効果を期待できるだろうか?
 オステオパシーの古典的な技法はいち早く海外に伝わったのはイギリスである。今もイギリスのオステオパシー界では骨格の矯正に重点をおかれているようである。尚、イギリス以外の諸外国においては、ニュー・オステオパシーの色合いが濃いと思われる。また、1960年代に長期にわたってアメリカで交流を行った日本武道医学の創始者中山清先生の努力で、日本武道医学会においてもオステオパシーの古典的な技法の研究と伝承に力を入れている。

◆オステオパシーと日本武道医学の交流

 日本におけるオステオパシーの歴史を調べてみます。文献などをみると「オステオパシー」という言葉は大正時代、昭和初期に発行された手技療法関連の書物の中に盛んに出てきます。しかし、これは当時アメリカのオステオパシー教育内容(技術など)とはまったく関係なく、アメリカで発行された書籍をつぎはぎしてオステオパシーや整体の本を出したり、または自己創造のテクニックをオステオパシーの名前で掲載しているだ
けであります。
 1965年、日本人で唯一初めてアメリカ・オステオパシー協会(AOA)に招かれ、技術の交流を行ったのは、日本武道医学の創始者・故中山清先生でした。
 当時、ニューヨークで開かれていた世界万博には、中山先生が日本代表として参加され、万博でアメリカのオステオパシー関係者が中山先生の技術に魅せられ、アッカーマン博士を代表に、AOA(米国オステオパシー医学会)の要求で数カ月にわたって日本の武道医学(武医術)とアメリカのオステオパシーとの間に歴史的な学術交流が 行われました。
 当時の交流結果を、中山先生が以下のように述べられています。
 『米国フィラデルフィアのセラトンホテルで開催されたオステオパシーの学術会で交流を行った際、皆、日本伝統医術(日本武道医学)の無血手術に驚き、新聞記者会見まで行われたという。数カ月の交流では、Dr.アッカーマン(会長)のスクールに再々招かれ、日本伝統医術の説明や技術を行い、オステオパシーの技術を習得させられた……』
 また、ドクターアッカーマンは、『我が米国医学は400年の歴史の中で成長発達したものであるが、貴方がたの国には数千年の歴史を持った医学がある。我々はその永い歴史の中で育った医学を習いたいのです。』と、私を感動させてくれた。日本古医学の今後の方向をもっと深く考えさせられたのである……。
 交流はオステオパシー医学関連の学校および数カ所で開催された大会で行われ、その記録が日本武道医学会および米国のオステオパシー医学会に保存されております。無論、日本人として米国のオステオパシー医学と正式な交流を行ったのは中山先生だけであります。
 当時、交流記念として、アメリカのオステオパシー学会よりオステオパシー技術に関する貴重な資料、そして日本武道医学会より日本伝統医学や武術の活法に関する実物資料交換が行われ、中山先生がICCTの日本代表に推薦されます。
 アメリカのオステオパシー界では、18世紀後半及び19世紀前半において日本の武道(特に柔術)に伝わる「活術」の研究がされていたという記録があり、日本柔術の活法がオステオパシー反射療法の発展に大きいな役割をなしているということは決して過言ではありません。
 この関係から、オステオパシーと日本武道医学に伝承されている整体術の技術思想に類似点が多くみられます。
 日本武道医学の創始者・中山清先生は、日本伝統の手技療法である武道医学(整骨、整体、活法など)を広く外国にまで紹介し、アメリカのオステオパシー医学会の他、香港や中国医学界とも正式な交流を行っております。
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技術のデモンストレーションを行っている中山清先生(1965年アメリカにて)
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アッカーマン博士に武道医学のテクニックを披露されているところ(1965年アメリカにて)
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交流記念帳に署名されているところの中山清先生(1965年アメリカにて)

★引用文献★
 オステオパシー医学手技テクニック(全三巻)
 S.パリッシュ著/たにぐち書店発行

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