|
|
オステオパシー医学の歴史概要 Outline of the History of Osteopathic Medicine 1828 アンドリュー・テイラー・スティル(Andrew Taylor Still)は、アメリカのミズーリ州カークスビルでメソジスト協会伝道師の息子として生まれる。 1852〜1853 スティルがフロンティアライセンス医師資格を取得し、軍外科医(Scout Sorgeon)をつとめる。 1874 骨格矯正療法の重要性を説き、正式にオステオパシーを旗揚げする。 1892 アメリカのカークスビル(Kirksville)でアメリカン・スクール・オブ・オステオパシー(American School of Osteopathy )が設立される。 第一期生のほとんどが医師または医学関係者だったという。 1893 アメリカン・スクール・オブ・オステオパシーの世界初のオステオパシー卒業生William Smith,M.Dが誕生する。スティルが自筆で卒業証書を授与する。 1896 アメリカのアクロン(Akron=Ohio 州北東部の都市でゴム産業の中心地)でEugene Eastman, DO,によって初めてのオステオパシーオフィスが開設する。 同年において、スティルの息子・Herman Taylor Still, DO, がCincinnatiシンシナティ(Ohio 州南西部の Ohio 川に臨む市)でオステオパシーの開業をする。 また同年代に、アメリカのヴァーモント(ニューイングランドの州)においてオステオパシー医療業務が初めて法的認可される。 1897 The American Association for the Advancement of Osteopathy (アメリカ・オステオパシー発展協会)発足する。これは後にAOA(American Osteopathic Association)アメリカンオステオパシー協会となる。 アクロンで開業していたEugene Eastmanは、医師法で逮捕される。 スティルが自叙伝(Autobiography of A.T,STILL)を出版する。 1898 オハイオオステオパシー組合(Ohio Society for the Advancement of Osteopathy)が設立され、George W. Sommer, DO, が初代会長となる。 1899 オハイオ州において、オステオパシーの最初の4年間教育機関が設立される。 同年代において、DOの新法案が拒絶される。 ウィリアム・ガナー・サザーランド D.O.により頭蓋縫合での関節のメカニズムの研究される。 1901 E.R. Booth, DO,が選挙によって選ばれた始めてのAOA(American Osteopathic Association)の会長となる。 1902 オハイオ州のi医師会によって初めてのオステオパシー資格試験が行われる。 1903 クリーブランド(Cleveland)でオステオパシー協会の七周年記念大会が開催される。 イギリスのジョン・マーティン・リトルジョンがカークスビルオステオパシースクールを卒業し、イギリスにオステオパシーを伝える。 1904 Ohio College of Osteopathyの最初の卒業生が出る。 1905 Dr.E.R. Booth によってオステオパシーと20世紀の医学史(A History of Osteopathy and Twentieth Century Medical Practice)が発刊される。★写真(1−2)CDの中にある。 1910 アメリカ医学教育に大きな影響をもつフレックスナー・レポート(Flexner Report )が発刊され、その中にオステオパシーが報告され、米国でオステオパシーが医療行為分野として公認される。 1916 Dr. L.A. BumsteadによってDelawareでオステオパシーの最初の病院が設立される(ベッド数30台)。 1918 A. T. スティル死去する。 イギリスでバッキンガムにて最初のオステオパシー学校(ブリティッシュ・スクール・オブ・オステオパシー)(British School of Osteopathy=B.O.S)がJ.マーチン・リトルジョンDOによって設立される。 1919 オハイオでは初めて、DOの麻酔剤および書毒剤の使用が認められ、これはDOによる外科手術の第一歩となる。 1920(大正9年) 日本で山田式整軆術講義録が発行される。本書の中にオステオパシーの言葉が紹介される。 オステオパシーに関係する日本最初の書籍「山田式整体術講義録」が発行されるが、ほかの療術と合わせて編み出した方法を「整体術」として紹介したためオステオパシーとして伝えられることがないまま広まっていったと思われる 1923 オハイオのWilliam A. Gravett, DOがAOAの会長となる。 1929 オハイオ州のDO資格者がでは589人となる。 1939 サザーランド博士(D.O)がThe Cranial Bowlを出版し、頭蓋骨調整法の基礎概念を正式に発表した。 1943 オハイオ州において、DOの投薬が公認される。 1951 合衆国公衆衛生局が初めてオステオパシー大学6校に教職助成金をに与える。 1954 オハイオのOhioan John W. Mulford, DOがAOAの会長となる。 1957 合衆国教育局健康・教育・福祉科(DHEW)によって、AOAはオステオパシー教育の認可機関として認められる。 1960 オステオパシー医科大学の入学時には70%以上が学士号以上の学位を持つに至る。 1961 カリフォルニア・オステオパシー医師協会がカリフォルニア医師協会に併合される。 ロサンゼルスのオステオパシー医科大学がカリフォルニア医科大学となる。 オハイオのCharles L. Naylor, DO がAOAの会長となる。 1962 カリフォルニア住民投票により、同州でDOの免許下付打ち切りが決定され、これにより同意するDOにはMDの学位が与えられるこのなった。 1965 日本武道医学会の中山清先生が日本人として初めてカリフォルニアでアメリカのオステオパシーと正式な技術交流を行った。 同年、呉竹学園で交流報告会が開催される。 日本武道医学会内で、オステオパシー医学研究部門が設立される。 1966 DOが初めて将校に任命される。 AOAはDHEW(現健康人間奉仕科DHHS)より、メディケアの病院の公認組織として指定される。 オハイオのJohn W. Hayes, DO, が選挙によってAOAの会長となる。 1967 AOAは国家認定委員会によって、オステオパシー教育のあらゆる面において認定機関として認められる。 1974 カリフォルニア州オステオパシー医科大学が認可され、オステオパシー医療業務が活発になる。 1975 Evelyn Cover, DO,女史がオハイオ医師委員会の初の女性DO会長となる。 1980 オハイオ大学(Ohio University)で初めて21人の医師が卒業し、全員DOの資格が授与される。 1983 DOが初めて陸軍医師団の司令官に昇格する。 1993 イギリスでオステオパシーが手技医療師として国会で認められ、公認の専門カレッジが誕生する 。 1996 アメリカ、コロラド、スプリングスでAOAの総会が行われる。オステオパシー医の業務に関する世界的統一基準が提案される。 1998 イギリスでGOsC、ジェネラル・オステオパシック・カウンシルの設立により、いくつかあったオステオパシーの団体が一つとなる 2002 2002年2月19日に、フランス上院は「オステおパス」(Osteopath)を公認したのである。業務範囲はイギリスとほぼ同等なものであるとされている。 1965年以来、日本武道医学会の研究部門だった日本オステオパシー研究部門が、日本オステオパシー医学会Japan Association of Osteopathic Medicine(JAOM)として設立される。 2003 日本頭蓋骨オステオパシー医学会Japan Association of Cranial Osteopathic Medicine(JACOM)が設立される。 ★オステオパシー医学概要(S.パリッシュ著/たにぐち書店刊)より引用 日本頭蓋オステオパシー医学会 〒180-0006東京都武蔵野市中町1-29-4 copyright 2002 電話:0422-53-5100(代) Copyright 2002 Japan Association of Osteopathic Medicine(JAOM) Japan Association of Cranial Osteopathy(JACA) World Rights Reserved 1-29-4 Naka-cho Musashino-shi,Tokyo 180-0006 Japan Tel:0422-53-5100 |
|